〚しおじり行脚考記12〛~薬師堂の脩践社~
塩尻における近代教育発祥の場所でもある。明治5年の学制発布以前、民間の出資により郷学校として脩践社を開設。階級に関わらず一般庶民も含めて、塾生19人が学んだとされる。薬師堂は約6m四方の狭い空間ながら、教師や塾生たちが自由闊達に学ぶ往年の熱気が響いてきそうだ。
塩尻市誌によると、脩践社の開学は同4年9月20日。当地は信濃国で唯一、維新政府と直結した伊那県が管轄。このため、教師は小野村の時習館を通じて高遠藩士・河野通萬を招へい。学校運営には苦労したようで月ごとの収支は赤字。地元の村の名士ら5人が不足分を負担したという。
校舎として仮用した薬師堂は手狭な割には、教師用の机や本箱をはじめ、刀掛や寝具、鍋釜、包丁、薪など生活用品のあらゆる物50点余りを搬入。さらには酒樽や一升徳利、奈良漬などもあった。20代前半の教師・河野に対し、地元の関係者が寄せる大きな期待の表れでも。開校から4カ月後の同5年1月、脩践社は長畝の長久庵へ引っ越すことに。
このお堂は中山道の街道筋から南へ約250mの地点にあり、今でも田畑に囲まれた静かな場所。ここが選ばれた経緯は不明ながら、やはり街道の喧騒から離れて良好な環境で子弟を学ばせたい先人たちの気遣いなのであろう。
— 場所: 薬師堂(塩尻東町区)

(脩践社が開設された薬師堂)
地図はこちら
塩尻市誌によると、脩践社の開学は同4年9月20日。当地は信濃国で唯一、維新政府と直結した伊那県が管轄。このため、教師は小野村の時習館を通じて高遠藩士・河野通萬を招へい。学校運営には苦労したようで月ごとの収支は赤字。地元の村の名士ら5人が不足分を負担したという。
校舎として仮用した薬師堂は手狭な割には、教師用の机や本箱をはじめ、刀掛や寝具、鍋釜、包丁、薪など生活用品のあらゆる物50点余りを搬入。さらには酒樽や一升徳利、奈良漬などもあった。20代前半の教師・河野に対し、地元の関係者が寄せる大きな期待の表れでも。開校から4カ月後の同5年1月、脩践社は長畝の長久庵へ引っ越すことに。
このお堂は中山道の街道筋から南へ約250mの地点にあり、今でも田畑に囲まれた静かな場所。ここが選ばれた経緯は不明ながら、やはり街道の喧騒から離れて良好な環境で子弟を学ばせたい先人たちの気遣いなのであろう。
— 場所: 薬師堂(塩尻東町区)

(脩践社が開設された薬師堂)

タグ :紀行 薬師堂 学校 塩尻町
この記事へのコメント
昨日、コメントしましたが、届いてませんか?
Posted by 岩下哲典 at 2014年02月04日 20:39
大丈夫ですよ!「行脚考記11」ヤドリギの方で拝見し、そちらにしっかりと掲載されておりますよ。コメントありがとうございました。
Posted by 前塩尻市議会議員 小野光明
at 2014年02月05日 01:27
脩践社についてコメントしましたが・・・。ええっと思い出してみますと、開学が明治4年9月、廃藩置県がその2ケ月前、確かこの辺は松本藩から松本県になって、明治4年11月には筑摩県になっていた伊那県とあらためて明治9年に統合されて筑摩県になるではないかと思いました。つまり脩践社のある地区は開学当時、伊那県なのか松本県なのかということですね。原則として江戸時代松本藩領でしたら松本県で、幕府領で松本藩預地でしたら伊那県です。その辺がどうなのかなと。まあ、それはさておき、学制発布が明治5年9月なので、そのちょうど1年前、脩践社は「上からの近代化」ではなく「下からの近代化」の象徴ではと思った次第です。脩践社には廃藩置県後の「時代の息吹」を感じます。
Posted by 岩下哲典 at 2014年02月05日 07:43
そちらの廃藩置県の解説コメントについては、やはり見当たりませんでしたね。
それら県関係の所属でいうと塩尻地域は少々複雑。塩尻市誌などによると、幕末の段階では松本藩と高島藩、高遠藩の三藩領だった。塩尻と筑摩地、宗賀は松本藩預所の所管であり、明治元年2月に名古屋藩取締所の管轄となり、これが同2年6月には伊那県に移管しています。従って同4年9月の段階では、お察し通り伊那県であったということです。
恥ずかしながら、塩尻市内にも高島、高遠両藩の所領があったこと、伊那県所管の変遷に関してはこれまで全く把握しておりませんでしたね…。
Posted by 前塩尻市議会議員 小野光明
at 2014年02月05日 19:13
私のPC操作ミスですかね。今の大字がだいたい、江戸時代の村ですね。その村が、江戸時代に誰の領地だったかに関しては、「旧高旧領取調帳」(近藤出版)が便利です。情報の一部は国立歴史民俗博物館(歴博)のデータベースで見ることができます。http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/searchrd.pl
明治初期に何県の管轄だったか確認できます。
ちなみに塩尻町村(しおじりまちむら)は、松本藩預所899石余、社領5石余、寺領1石余で、伊那県になっていました。松本藩預所は幕府領(天領)ですから、慶応4年12月の王政復古のクーデタで徳川慶喜の辞官納地が決定された時点で、名目上は新政府領になったわけですが、慶喜以下主戦派が抗戦しましたから、東征軍が編成されて、信濃は尾張藩(名古屋藩)が平定して管轄下に収めていったようです。新政府に恭順した藩(松本藩など)はその支配が認められていきました。したがって、明治の早い時期に新政府側に接収されて県になった地域(伊那県など)と明治4年に藩が廃され県(松本県など)が置かれたものとありました。この時期はなかなか複雑です。しかし、今日の住民意識は江戸時代の意識が残っている場もあります。たとえば、旧会津藩領では、今でも会津藩へのシンパシーがありますよね。歴史を知ることは結構重要なことだと思います。なお、会津藩士の苗字、山川とか、黒河内とか、「八重の桜」にも出てきましたが、伊那谷にも多い苗字です。なぜでしょう?
Posted by 岩下哲典 at 2014年02月05日 23:42
なるほど、考えてみれば伊那方面にはその苗字をよく聞きますね。やはり徳川家と関係が深かった高遠藩が戊辰戦争後、身元引き受けをしていたからなのでしょうか。そんな程度しか思い付きませんが…。
Posted by 前塩尻市議会議員 小野光明
at 2014年02月06日 09:14
会津藩祖保科正之は、3代将軍家光の異母弟です。ある事情があって高遠藩3万石保科家で養育され、のちに保科家当主となりました。家光が兄弟名乗りをあげてくれたため、将軍の親戚筋(家門大名)になることができたのです。そして会津23万石のまえに、寛永13(1636)年に高遠3万石から山形藩20万石に転封(てんぽう)になりました。その際、20万石の格に見合うだけの量と質の家臣を抱える必要がありました。7倍の規模になりましたから単純に計算しても7倍の家臣団をもたねば、徳川将軍家に対して不忠になります。そこで高遠藩領の村々の上層農民の二男三男などを大量に保科家の家臣(武士)に取り立てたのです。そのころはまだ戦国時代に武士であって、農村に土着した者がいましたからそうした人物も取り込んだんでしょうね。いづれにしても「会津武士」と言われる会津藩士の家の中にはかなりの数の「信濃武士」もっと言えば「伊那武士」がいたということです。「信濃武士は真面目だけど融通が利かない」ともいわれ、それが、幕末の会津藩の悲劇を招いたという説もあります。これはあくまでも説ですから、反論があっていいと思います。
以上が、伊那谷の苗字をもつ会津武士が多い理由です。
なお会津藩主は、保科3代正容(まさかた)のときに保科から松平に改姓しました。徳川将軍から許されたといった方が正確ですが。ですから、幕末の悲劇の藩主容保は松平なんです。
Posted by 岩下哲典 at 2014年02月06日 22:58
なるほど、確かな史実をたどればそういうことになるのですね。私は全くの見当違いをしていました…^^;
そんな縁と関係があるのか、福島原発の被災農家が地元を諦めて箕輪町に移住、サクランボ栽培を始めたというニュースが以前にありました。長野県内では上伊那に避難している人たちが意外に多いのかもしれませんね。
そう云えば、横浜生糸売込商の小野光景も明治中頃の幼少期、高遠で養育されていましたよね。
やはり山マルも高遠藩とは関係が深かったのでしょうか…?
Posted by 前塩尻市議会議員 小野光明
at 2014年02月07日 08:56
おそらくありましたでしょうね。小野光景は高遠の商家小林家に養子に入ったそうですね。
江戸時代の御柱祭の時、小野地区の矢彦神社は高遠藩の御用林から御柱を切り出し、高遠藩領の村々が御柱を曳く人足を出しました。北小野地区の小野神社は松本藩の御用林で松本藩領の村々が人足を出したそうですから、関係は深いですよね。
そういえば、今週末小野光景とその父光賢に関して話をします。神奈川や東京などにお住まいの方で、関心のある方はぜひどうぞ。ただし、会員・非会員を問わず一律に参加費500円がかかります。ご注意ください。
以下、横浜黒船研究会のご案内
日 時:平成26年2月9日(第二日曜日)
14:00~16:00
場 所:横浜市旭区市民活動支援センター「みなくる」 研修室1, 2, 3
TEL:045 – 382 – 1000
「みなくる」は、相鉄鶴ヶ峰駅改札口から繋がる「くらしターミナルココロット鶴ヶ峰」の4階にあります。 鶴ヶ峰駅は相鉄横浜駅から各駅停車で約20分,快速で17分。下車してから「みなくる」までは約5分かかります。(13:30から入場可)
参加費:500円
研究発表会タイムテーブル
14:00~14:05 開会のごあいさつ
14:05~15:30
発表者:岩下哲典(当会会員)
講演題目 「近代横浜の発展に寄与した小野光 賢・光景と『たのめの里』
発表者コメント:小野光賢・光景父子の事績と横浜の発展に果たした役割、父子の故郷である信濃国伊那郡小野村(現、長野県上伊那郡辰野町)、すなわち「たのめの里」に関してお話しします。
ちなみに発表者の故郷も「たのめの」ですが、小野村ではなく信濃国筑摩郡北小野村(現、長野県塩尻市)です。どうしてこういうことになっているのかも含めてお話ししたく存じます。
発表構成:
はじめに
1.「たのめの里」とは
2.「他のめの里」は世界遺産になりうるか
3.小野光賢・光景と横浜
4.筑摩書房と横浜
15:30~15:40 休憩
15:40~16:00 質疑応答
16:00~16:15机と椅子の現状復帰
以上
Posted by 岩下哲典 at 2014年02月07日 11:36
詳細な告知まで掲載して頂き、ありがとうございます。
横浜黒船研究会なんていう地史の団体があるのですね。参加者の反応がどのようなものなのか、とても興味のあるところです。筑摩書房も横浜と関係があったのでしょうか。それは初耳ですね。
また、折を見てお話を聞きたいものです。
9日はどうぞ存分に「たのめの里」を宣伝して来て下さいませw~♪
Posted by 前塩尻市議会議員 小野光明
at 2014年02月07日 21:53
了解しました。応援ありがとうございます。
Posted by 岩下哲典 at 2014年02月08日 05:15
大雪のため、明日の横浜黒船研究会は2月23日(日)の午後に延期となりました。
詳細は後程お知らせします。
Posted by 岩下哲典 at 2014年02月08日 13:19
横浜黒船研究会
第114回定例研究発表会延期と開催日変更のお知らせ
本日の大雪の影響で交通機関の混乱と積雪による交通困難が予想されますので明日開催の定例会は中止致しますのでご了承願います。
定例会は日を変えて下記延期いたしますのでご参加いただきたくご案内いたします。
日 時:平成26年2月23日(第四日曜日) 14:00~16:00
場 所:「フォーラム南太田」2階第三研修室 (13:30開場)
横浜市南区南太田1-7-20
TEL:045-714-7371
参加費:500円
研究発表会(内容は変更なし)
以上
Posted by 岩下哲典 at 2014年02月08日 15:51
ご丁寧に変更案内ありがとうございました。
信州たのめの里は昨日の大雪で55cmは積もりました。寒冷地が一日で豪雪地帯へ。天候の急変には本当にビックリです!
昨日の親友亡母の葬儀には大雪の中、遅れずに何とか会場に辿り着きました。
23日の研究会はご盛会を祈念しております。
Posted by 前塩尻市議会議員 小野光明
at 2014年02月09日 08:59
来る平成26年2月23日(第四日曜日)開催予定だった横浜黒船研究会第114回定例研究発表会(岩下哲典による「たのめの里」関係の研究発表)は、15日の大雪によって岩下が関係する入試が23日に延期されたため、発表会そのものが中止となりました。たびたび予定が変更となり恐縮です。新たな発表会開催日はまた改めてお知らせいたします。
Posted by 岩下哲典 at 2014年02月17日 09:30
岩下教授、ご丁寧にありがとうございます。
改めての告知案内お待ち申し上げております!
Posted by 前塩尻市議会議員 小野光明
at 2014年02月20日 10:37