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‘雪かき詐欺’が発生!?

  塩尻市宗賀地区で昨日の26日、‘雪かき詐欺’のような事案が発生したようですね。市職員を名乗って、無料で自宅前の雪かきをしましょうと進言。ついては、その上で○○をという話向きのようですが、幸いなことに実害はなかった模様ですね。
  行政の緊急メールでは「市が個人宅を訪問して雪かきをすることはない」と告知、注意を喚起しておりました。けれど、逆に云えば、それだけ同市内の除雪対応が不十分な証でもあり、詐欺の仕掛け人は油断ならない情報通でもあると言えそうですね。
  何れにしても、善良な市民の歓心を買って巧みに騙す詐欺師には十分にご注意下さいませ!!


〚しおじり行脚考記18〛~中スポの雪山~

 中央スポーツ公園の駐車場に巨大な雪山が出現した。写真㊤は2月8日の大雪から3日目、次の写真㊦は同14日の豪雪から5日目のものだ。雪山の高さは約5mから10m超へ、量は4倍以上に膨らんだ。19日現在、次から次へとトラックに積んだ雪が持ち込まれ、3台の大型重機が忙しく動き回っていた。
 塩尻消防署等の観測によると、14日の積雪は90cm。1週間前の降雪はほとんど融けていない状態だから、8日の50cmを加えると合計で140cmにも。長野県北部県境の豪雪地帯に比べれば少ないが、平年は雪が少ない寒冷地では100cm超えは豪雪の部類だ。
 これだけの積雪量になると、市街地などでは雪捨て場の確保に難儀。塩尻市内ではこのほか、総合グランドや塩尻北部公園、小坂田公園多目的運動場等の計5カ所を用意。次から次へと搬入される雪で、どこも満杯状態が続く。同駐車場も一時は閉鎖されたが、重機による雪の整理で新たなスペースを準備して再開させた。
 それにしても、こつ然と人工的な雪山が現れたところで、さすがに‘雪山賛歌’は響いて来ないものですね…。
— 場所: 中央スポーツ公園 (広丘高出)






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〚しおじり行脚考記17〛~JR鉄路トライアングル~

 鉄道面から‘交通の要衝’である塩尻を象徴する地点でもある。写真は宗賀桔梗ヶ原の高層住宅から撮影したもの。鉄路の左側が新設路線の中央西線、右側が旧路線。写真奥の二つのビルの間には中央東線が走る。左側路線を500m程進むとJR塩尻駅がある。これらのレールがちょど三角形のトライアングルのような形に。現在の場所に移転した同駅は昭和57年5月17日の開業、今年で32年目を迎える。塩尻市のまちづくりにおいても、塩嶺トンネル工事を含めて劇的な社会環境の変化をもたらした歴史的な事業だった。
 塩尻市誌によると、塩尻駅移転や塩嶺トンネルの完成により、中央西線のスイッチバック運転が解消されたのをはじめ、塩尻-岡谷間が辰野経由の従来より普通列車で34分短縮して11分、特急だと塩尻-新宿間が20分短縮して運行されるように。これに伴い、塩尻-辰野間は1両編成のミニエコーによる代替運転となった。
 この塩嶺短絡ルートは昭和41年11月、旧国鉄理事会で決定、当初の完成予定は同46年3月だった。しかし、同ルートに関して、塩尻市を含め地元に何ら相談もなかったことに反発も。同トンネル工事で同50年6月、掘削中に大量の異常出水があり、工事が1年余り中断。また新駅の移転問題や新駅周辺の都市計画策定などもあり、最終的には国鉄の見込みより11年余遅れて新駅の開業となった。
 一方で、新駅の移転計画に伴い、駅の東側と西側で区画整理事業も進むことになるが、地下S字カーブのような幹線道路の敷設に見る通り、同事業の反対等により東西の計画で整合性のミスマッチが大きく派生したことも伺わせる。
 ところで、JR塩尻駅の乗客数は平成23年度、138万人余で前年度に比べて約3万人の増。旧駅時代の昭和42年度はピークと思われる約163万人。マイカーの普及や高速バスの利用等により、長期的には減少傾向にある。どんなにリニアをはじめ高速交通網が発達しても、最も身近な‘市民の足’である鉄道の公共交通は未来永劫存続してほしいと願うばかりである。  
— 場所: JR塩尻駅西・宗賀桔梗ヶ原

(写真より下の地図の方が一目瞭然ですね)
 
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〚しおじり行脚考記16〛~五日市場~

 一面雪の原の畑の中に市場があったとは想像が付かない。弥生から平安時代の住居跡もあったとされる。江戸時代の街道整備を端緒に、現代までの街並みが形成されるのは400年有余。この期間よりも弥生から平安の時間軸の方がずっと長いから、後者の存在は当時の価値観からすれば相当な意味があったのであろう。
 塩尻市誌によると、この付近は中世に5・15・25の日に立っていた三斎市にかかわる場所として注目。この市場は農村型の市として、郷農民を対象に地域的な物資交換の場として機能。物資としては米や雑穀類、野菜などの余剰生産物と、青そや絹などの織物原料。他に商人により塩・魚介類・油などの食料品を中心に、農具や陶器類なども持ち込まれた。
 道路についてみると、高出和出から花見、下西条から大小屋を通り、この地へ向かう形で、それぞれ市道の地名も。この北側の中挟地区にかけて大規模な古代集落があり、これを支える豊かな水田が低地帯を中心に古代から展開。中世には塩尻郷の中心地域へと発展し、市が立っていたとされる。
 さらに、塩尻は古代から東山道が通過する交通の要衝であり、地理的優位性の下、豊かな水田地帯を背景に街道に沿って市が成立してきたと推測。一方で、五日市場だけが地名として現在まで残る事実を考えると、天保14年の古文書から近世初期まで市立てが行われていた可能性もあるとする。
 何れにせよ、現代に至るまで、ずっと塩尻が交通の要衝であり、その歴史は想像以上に随分と長い。それは西暦を超えて2千年以上である。その中心軸は東西南北へと移ることはあっても大した距離ではない。こうした歴史的事実を踏まえ、今一度、交通の要衝の意義を再考する時期なのかもしれない。
— 場所: 五日市場(塩尻東桟敷)

 
 
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寒冷地が豪雪の里に!?

 よくぞまあ、降ったものです。8日未明から降り出した雪は9日朝までに、信州たのめの里で55cm程に。松本でも約50cmの積雪。長野県中南部は一日にして豪雪地帯に早変わりです。
 平年の冬なら30cm前後の積雪について、松本や塩尻、諏訪等のどこが多いだの少ないだのという話題がよく出る。けれど、昨日のような大雪になると、5cm程度の差でしかなく、寒冷地・たのめの里と比べても‘五十歩百歩’なのである。除雪に関しては、中心市街地の方がより困難を極める。雪捨て場の確保に難儀するからだ。そこへ行くと、田畑が残る田舎の田園地帯だと自力で何とかなるから、行政の手間いらずなのかも…。
 信州たのめの里は一日にして寒冷地から豪雪地帯へ。霧訪山の裾野もすっぽりと大雪に包まれ風景が一変。それでも一夜明けた今日は、青空が雲間から見えはじめ、陽射しに輝く新雪の純白が山懐に眩しく映えています。

(大雪にすっぽりと包まれ、新雪の輝きが眩しい霧訪山の山懐)
 
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大雪警報発令ちう!

 長野県の中南部は8日未明より大雪警報が発令中!信州たのめの里は積雪が午前9時前の段階で既に15cm。時折り、北寄りの強い風が吹いて雪溜りも。このまま降り続くと久しぶりの大雪となりそう。果たしてどの程度積もるのでしょうか…。
 雪質はかみ雪の割にはさらっとして軽く、雪をかくにはそれ程の重労働でもなし。ただ、一日ずっと降り続くとなると、何回雪かきをすることになるのだろうか。本日、昼過ぎには親友亡母の葬儀もあって出席しなければならず、それまでには止んでほしいものだけれど…。
 今月初旬の暖かさで畑の雪が一度は消えてしまった霧訪山裾野の上の原。未明からの降雪により、もう一面が雪の原となって真冬の風景に逆戻りですね。

(再び畑一面が雪の原に戻った霧訪山裾野の上の原)

〚しおじり行脚考記15〛~古民家・玄関の引手~

 正確には、古民家の玄関ではなく、土間に入る大戸口の引手である。写真で見る通り、その造形がとてもユニーク。屋号やヒョウタン、扇などをかたどってあり、とても素朴な木彫デザインだ。その家を象徴する一つの‘顔’でもあり、その表情には訪れる人を何かほっと安心させるものがある。
 写真は上から、塩尻市内下西条㊤、同長畝㊥、同堀ノ内㊦の古民家で見つけたもの。一番下は国重要文化財・堀内家住宅のものだ。下西条の引手はこの家の屋号「大上手」を一枚板に彫り抜いた。長畝のものは引手の円形から瓢箪を意匠。堀ノ内は楕円に扇、菱型の形を模ってある。よく見ると、彫り抜きでなく、節穴の造形を巧みに生かして引手に応用したようだ。
 精巧な襖の引手金具や座敷間を飾る豪華な木彫の欄間とは違って、こちらは板目の個性や風合いを十分に引き出している。大戸口の小さな引手一つにも、単純で素朴な意匠美を盛り込み、昔の職人の心意気を感じてとても嬉しくなってしまう。どうぞ皆さんも、じっくりとご覧あれw~♪ 
 
(一枚板に屋号をかたどった引手・下西条)

 
(引手一つから横一列にリズミカルに並ぶ瓢箪・長畝)

 
(節穴の造形を巧みに生かした引手・堀ノ内)

〚しおじり行脚考記14〛~荒神塚の小さな森~

 なだらかな丘にある畑の中の小さな森である。ニレ科のエノキ3本とイチイ科のカヤ2本が存在感をもつ。カヤの深い緑色と、落葉した枝が空に向かって伸びるエノキが、冬の空に凛とした姿を示している。
 森の中にある記念碑や北小野地区誌によると、ここは荒神社の跡地で、縄文中期以降の土器や石器等が多く出土し、荒神塚とも呼ばれた。出土品の一部は小野神社で保存する。明治42年6月、境外官有地にある神社は合併する命令があったため、小野神社境内の八幡社と合祀された。これに伴い、この跡地は御休所として、近くに住む古厩姓の同族祭祀の地に。同姓の関係者の話だと、毎年4月末、祠や敷地の清掃等をした後、同姓のお祭りを続けているという。
 これらエノキとカヤは合祀の際に植樹したものらしい。ともに100年生以上となり、その風格がある。なぜこの両木なのか不明ながら、カヤは材が堅くて丈夫、エノキは江戸時代に街道の一里塚に植えられた経緯もあることから、選ばれたのかもしれない。
 この塚は国道側からはよく見えるものの、西側には住宅が立ち並んでおり、入り口がちょっと分かりにくい。それでも住宅の間に路地があるから、そこから20m程入ると、すぐ目の前にある。見物するのに一番いいのは、やはりエノキが淡い黄色の花を付ける初夏の頃でしょうね♪
— 場所: 荒神塚(北小野宮前)

(天に向かって伸びるエノキの枝振りが見事な冬の荒神塚)

 
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〚しおじり行脚考記13〛~えんぱーくの壁柱時計~

 柱時計でなく‘壁柱’時計なのである。えんぱーく(市民交流センター)を象徴する大きな一つの場所、市立図書館入口のエントランスホール「水のコート」にある。東側の壁柱に左半分の時刻盤がない、木曽漆器の漆工芸による大時計が、今も時を刻んでいる(=写真)。
 この施設の特異な構造となっている壁柱は、厚さ200㍉のコンクリートの片面に6㍉鋼板をスタッドボルトで一体化し、長さは11.4㍍。4種類97枚の壁柱を組み合わせ、建物の基本構造となっている(「新建築」2010年10月号)。設計者が地域の中の建築像に求めたのは「地域の人びとが自らの『市民力』を喚起するような公共建築」(同)という。
 「来場者の多いうちにこの熱をまず市街地へ、次いで全市へ広げ、『また来たい』と思わせる街にするのが、賑わい再生の基本プロセス」(「建築技術」2010年12月号)というのが関係者の熱い思い。「ここは友達や家族といっしょに、あるいはひとりで散歩しながら一日楽しく過ごせるところ」(「リアル・デザイン」2010年11月号・第2回現代建築紀行)との評価も。ただ、年数億円に上る維持管理コストとの関係性の話は余り見聞きしないけれど…。
 難しい話はさておき、壁柱時計である。白い壁に漆黒の長短針と時刻盤がよく映える。直径は3㍍余りあり、その大きさから長針は常に動いているのが分かる。4階まで吹き抜けの水のコートには2階への螺旋階段もあり、多くの人が行き交う。「建物の中は迷路のようでよく分からんね」というお年寄りも、ここだけは地域振興バスの待合場所として、その姿がよく見られる。
— 場所: えんぱーく 塩尻市立図書館


 
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暦通りの「立春」!?

 ここ数日、春を思わせるような陽気である。寒中なのにこんなに暖かくていいのだろうかとも思ってしまう。昨年末の長期予報だと、厳冬予測だったはずなのに…。
 信州たのめの里も寒冷地返上でまるで避寒地のような暖かさ。この時期に霧訪山懐の畑に雪がない立春なんて本当に珍しい。暖冬でもこんなことはなかったように思う。先週は雨の日が2日間もあったから、雪が融けてしまうのは当然と云えば当然であるけれど。
 このまま本格的な春の訪れになるほど、甘くないのが信州の冬。今日は日中の方が気温が低くなって厳しい冷え込みに戻りそう。ちょっと油断しているとインフルエンザの逆襲に遭ってしまうかもしれませんね。ノロウィルスとともに要注意ですよ~!(^.^;

 
(畑の雪も見事に融けてしまった立春の霧訪山山麓)
 
 
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〚しおじり行脚考記12〛~薬師堂の脩践社~

 塩尻における近代教育発祥の場所でもある。明治5年の学制発布以前、民間の出資により郷学校として脩践社を開設。階級に関わらず一般庶民も含めて、塾生19人が学んだとされる。薬師堂は約6m四方の狭い空間ながら、教師や塾生たちが自由闊達に学ぶ往年の熱気が響いてきそうだ。
 塩尻市誌によると、脩践社の開学は同4年9月20日。当地は信濃国で唯一、維新政府と直結した伊那県が管轄。このため、教師は小野村の時習館を通じて高遠藩士・河野通萬を招へい。学校運営には苦労したようで月ごとの収支は赤字。地元の村の名士ら5人が不足分を負担したという。
 校舎として仮用した薬師堂は手狭な割には、教師用の机や本箱をはじめ、刀掛や寝具、鍋釜、包丁、薪など生活用品のあらゆる物50点余りを搬入。さらには酒樽や一升徳利、奈良漬などもあった。20代前半の教師・河野に対し、地元の関係者が寄せる大きな期待の表れでも。開校から4カ月後の同5年1月、脩践社は長畝の長久庵へ引っ越すことに。
 このお堂は中山道の街道筋から南へ約250mの地点にあり、今でも田畑に囲まれた静かな場所。ここが選ばれた経緯は不明ながら、やはり街道の喧騒から離れて良好な環境で子弟を学ばせたい先人たちの気遣いなのであろう。
— 場所: 薬師堂(塩尻東町区)

(脩践社が開設された薬師堂)

 
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〚しおじり行脚考記11〛~大門神社のヤドリギ~

 冬の青空に緑色の球が映える。境内から高く伸びたケヤキの枝に付いたいくつもの寄生木(=写真)。葉が落ちて枝振りが見事な巨木のケヤキと共に、寒い冬の塩尻には人々の目を楽しませる貴重な緑と言えそう。ヤドリギの下のキスは永遠の愛の証でもあるとか。あたなもここでロマンチックな出逢いがあるかも…♡(^.^;
 ウィキペディア(フリー百科事典)によると、ヤドリギはケヤキやミズナラなどに半寄生するビャクダン科の常緑樹で、宿主のケヤキの枝から水分やミネラルを吸収して生育。繁殖は主に果実を食べる冬鳥のヒレンジャクやキレンジャクによる。果実を食べた鳥が落とす排泄物が小枝に付着すること等で数を増やすとされる。
 ヤドリギは歴史的に樹木を枯らして生育環境の価値を減ずるものとされてきた。一方、近年では考えられていた以上に生育している環境に影響を与える生物であり、生態系の要を担っているということが認識されるようにも。
 真偽は定かでないけれど、北欧神話に基づくエピソードとして、ヤドリギのクリスマスリースの下で女性に出会ったら、男性はその女性にキスをする、そしてヤドリギの下でキスをした二人は永遠に結ばれるという。
 ひょっとすると、大門神社は縁結びの神で、ケヤキの木の下で男女のカップルがキスをすると結婚できるのかも。新たな“街コン”ネタにもどうぞw~♪♡
— 場所: 大門神社 (大門三番町)



  
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〚しおじり行脚考記10〛~堀内家屋根の石~

 重文・堀内家住宅の屋根に石(=写真上)が載っていたなんて-!。これまで意識の中にそれが全くなかった。頭の中には正面から見た本棟造の屋根(=写真下)の印象しか残っていないからだろう。見ているようでしっかりと見ていないものですね…。
 塩尻市誌によると、堀内家住宅は本棟造による系統民家の一頂点を示すものとして昭和48年、重要文化財に国が指定。18世紀後半頃の農家建築とみられ、屋根中央にある大鷲が羽ばたくような棟端飾り「雀踊り」が大きな特徴の一つだ。この雀踊りが本棟造の特徴そのものであり、「屋根と云えば雀踊り」しか見ておらず、民家正面の姿を見ることで自分の脳が満足していたのでしょう。
 個人的に記憶をたどってみれば、昭和40年代頃までは板葺の民家があり、確かに石置きだったと記憶する。親戚の家もそうであり、子ども心に何で石があるのだろうと不思議に感じたことを思い出した。ここで、何よりも大切なのは、屋根の石よりも重文の農家建築であるのは他でも御座いませんが…。(^.^;
— 場所: 重要文化財・堀内家住宅 (塩尻東堀ノ内)
 

 

 
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